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向こう側とこちら側
051129

随分と、前ログから空いてしまった。

とんでもなく忙しくなり、文章を書く気力すら湧いてこなかった。

多忙の中には一晩でA4版200頁のドキュメントを書き上げるという無謀な日もあったりして、精神と身体が悲鳴を上げておりました。

その間に、あの「構造偽装問題」が勃発、いつかはコレについて書かなければならないなぁ。と思っていた。
あまり茶化して書いても何だし、通常の怒りの部分や、補償問題をどうするのかと言った視点を書いたとしても、世間一般のブログやニュースサイトにてより詳細に書かれているので、そちらを読んでほしい。

同じ設計士として、ワタシなりにこの事件について感じたことをつらつらと書き連ねてみる。この事件については、ちょうどワタシの徹夜と事件勃発が重なっていて、つくづく考えさせられた。

現在も責任のなすりあいが続いている。その姿は端から見てもあさましい。

巷では、「勝ち組・負け組」や「上流・下流」と言った論が盛んに語られている。
皆、上を目指したいのだ。

様々なメディアにて、上流の虚像(おっと)と言うか。優雅な生活が喧伝されている。
ライブドアや楽天などに代表される実がないと言っては批判を受けそうだが、カタチある実態を作ることなく、企業買収などで金が金を生む業態が今、盛んになってきている。

一方で、カタチある実態を作る建設、設計業界は、相変わらず労働時間が限りなく長く、悲惨なほどの低賃金の実態は更なる拍車がかかってきた。

この傾向はバブルがはじけた十数年前から、徐々に厳しくなってきている。

1級建築士と言う少しセレブに聞こえる敬称とは裏腹に、その実態は恐ろしく下流なのだ。
ここで、「金銭的下流がすべて不幸か。」と言う問いかけがなされるかもしれない。
ワタシは金持ちだけが上流とは思わないし、収益が少ないながらも「精神的上流がきっとある」とやせ我慢として思っている。だが世間一般で言われる上下の差については、年収で語られるはずだ。

中には有名建築家として、「作家料」とでも言えるプラスアルファの報酬が上乗せされる方々もいる。だが、そのようにオプション価格が上乗せされる建築家はほんの一握りでしかない。多くの設計を生業としている1級建築士は、殆どが食べるのにカツカツの報酬で頑張っているのではないだろうか。
清貧の思想と言おうか「ものを創造できるだけで幸せ」と言った職業倫理感が優位に立ち、報酬と言う部分においては、最低限貰えるだけで良しと言った状態は、もはやデフォルトですらある。

設計士が、そのような「創造の喜び」だけで我慢できずに金儲けに目が向いてしまった時、(設計業界は自身の生活レベルとは裏腹に、本当なセレブな方々に接する機会は多い。)安全ですら、ないがしろにする事態に陥ってしまうのは容易に想像がつくのだ。

「虚像が金を生むならば、俺達だって虚像で儲けても良いじゃないか。」と

ところがどっこい、こちらは実態が絡んでいる以上、はったりでは済まなかった結果が、今の大問題へつながっている。

事例として挙げると、条件や設定が違うとか指摘が上がると思うが、雪印、三菱、JR西日本、航空機業界etc

昨今、少しの粗相もなく完璧な実態を提供しなければならない分野で、「これぐらいでいいや」といった緩みが大問題を発生しはじめた。
いつかは建築業界にも起きるのだろうと感じていたが、これほどまでに大規模になるとは思わなかった。

最近の建築業界のコスト大削減の流れの中で効率良く収益を上げるためには、回転率を上げるしかない。単価が安いならば、ルーチンで数を廻さなければ収益はあがらない訳だ。
当然、ルーチンで回転させるためには、極限まで検討、考察している時間はない。
実際、安全性を守りコスト削減するためには、何度も何度もCPUを走らせなければならない。ヒューザーのおっさんのために「経済設計」と言う言葉が独り歩きして悪者のように語られるが、この思考錯誤を繰り返しての極限の経済設計はあるはずなのだ。

かのカツラの建築士が「圧力があった。」とか語っているが、いくら圧力があったからとして安全性まで反故にしてしまうようなことは、普通の感覚ならば出来ないはずだ。
彼は、どうやらその思考錯誤をふっ飛ばしてしまった。計算をやっても、やっても要求には応えられない。最初は「ならば、どうにでもなれ。」だったはず。

禁断の果実に手をつけてしまい、向こう側に落ちた経緯を想像してみると、そんなところなんだろう。
彼自身も、最初は、おそるおそるだったのだと思う。6年前といえばバブルがはじけた頃、金銭的にも苦しかったと想像に難くない。少し改竄が金になり、仕事が回転する。確認申請も通ってしまうし、どんどん金が入ってくる。それが続くにつれて感覚の麻痺に陥る。

彼の車は、上流のアイテムであるメルセデスだ。
普通、創造の喜びの勝る設計者の多くは、自邸にこそ工夫と金をかける(金は2義的なものと断っておく)ものだが、彼は報酬を車という金持ちのアイテムへ置き換えた。それに比べて、テレビで映し出される彼の自邸は、おそろしくみすぼらしい。ギャップが激しすぎるのだ。
たぶん、彼は建築への情熱のかけらもなく、設計とは報酬を得るためだけの生業に成り果ててしまったのではないのだろうか。

「そんな奴は設計者を辞めてしまえ。」と言うのはたやすい。彼のやった所業は非難されるべきであるし、情状酌量の余地もない。
ただ「清貧の思想でお前ら頑張れ。」といった社会情勢も一方で変えてゆかなければ、第2、第3の向こう側(ダークサイド)に落ちる設計士が出てくるはずなのだ。

大規模開発者の論理からすれば「設計者はいくらでも替えがある。」

 メディアやブログでこのような構造偽造が「氷山の一角」と言った想像が各所でなされている。悲しいことかなワタシもそれが現実なのだと思う。

 この広い世の中、昨今の上下流の風潮の中で、彼と同じように向こう側に落ちてしまった設計士が数多くいると思う。
 正等にマッサラな気持ちで、設計している方々にとっては、自らの職業に対する侮蔑だととられるかもしれない。(感じてしまったら、ごめんなさい。)ワタシだってそんな同士が多々いるとは思いたくない。だがいるはずだ。

 どっかの政治家の「悪者探しをすると業界が潰れる。」なぞと言う発言が物議を醸し出しているが、我々からすれば、この際「膿は出しきらない」と業界自体も発展しないし、正常なカタチに戻らないと危惧する。
当然ながら、向こう側に落ちた設計士や建設業者は淘汰が進むのだろう。自分達で撒いた種だ。抜け駆けした罰だ。それは受けてもらおう。

 日本では、設計を含めて知的生産物、つまりソフトに金を払うのは無駄だという思想が根強い。この辺りの意識は変わって欲しいと切に願う。
また、それ以上に切望するのは、オリジナルの設計には時間がかかることも是非理解してほしい。

オーダーメイドのスーツは、金と時間がかかりますよね。

 カツラの設計士が構造設計したマンションは、十メートル近くものスパン(柱間隔)を飛ばすような建築だった。ハウスメーカーのように規格があり、その規格の中で間取りを変えるような建築ならば、ルーチンワーク的に構造なども決まるだろう。
だが、上記ような大スパンな空間をルーチンでやったとしたら、齟齬が発生するのは目に見えている。空間を持たせるために、柱や梁を太くしたり鉄筋を増やしたり、中に鉄骨を入れたりしなければ、万有引力の法則に敵わない。

「時間管理は企業努力でやれ。」といわれるかもしれない。
ただそれを作るスキルを持つ人間も無尽蔵にいる訳でもなく、人海戦術にも限りがある。
結局、無資格な人間や資格があれど無理解の人間の投入を余儀なくされる。
(最終的には、スキルのある人間の人海戦術ができる企業が残っちゃうのかな。とも思うのですがね。)

建設費については、材料の選択や各所の工夫によって、何らかの低コスト化は図られるだろう。だが、それにも限度というものがあります。付近の相場と比べ、3割も4割も安ければ、必ずそこにはスキップしてしまったものがあると思って欲しい。

建築士、書いて字のごとくサムライ稼業。

「武士は食わねど、高楊枝」

そんな気位を持ち続けようとつくづく思うのだ。
なぁご同輩。
| つぶやき | 01:47 | comments (7) | trackback (0)
千歳飴
051113

庭園の皆様の相手で辟易気味です。
ログを更新するにも気持ちが乗っていかない。ホント。
今週はコドモを連れて、近所の神社へ七五三参りに行ってきた。
(ひちごさんでは辞書変換してくれへんのやな。しちごさんや。しちごさん。笑)

久しぶりの晴天で、近所の無名の神社でも結構な人がいた。
この行事、日付が厳密に特定されていないので、日柄の良い休みの日がその日に当たるみたい。
(間違っているかもしれない。でも良いのだ。仕事を休んでまで行くものでないはず。)

結構待たされて、大枚をハタいて神主さんのシャラシャラ〜。シャンシャンって言うのを受けて、帰りにお約束の千歳飴セットをいただく。

中身を見て、ちょっと驚く。
最近の千歳飴は、短いのね。
袋は昔とおりに長い(40センチくらい)のだが、入っている飴は13センチくらい。
ねじりも加えてなくて、棒状の赤一色と白一色の2本だけ。
イメージとしてはこんなんが入っていた。

やっぱり、形状としてはこっちのイメージのものなんだけどなぁ。

それに加えて、玩具まで入っている。
「ん、こんなんだっけ。」

ワタシの記憶が確かならば、あの長い袋の長さ同様の長い飴が入っていたはずなんだけどなぁ。

やっぱり、ノドを突いたり、なめているうちに手がベトベトになったりするので短くなったんかなぁ。

でもアレって、こどもがドコまでも長く伸びるようにって想いが込められるもんじゃなかったんだっけ。

ま、いいっか。
| つぶやき | 18:14 | comments (5) | trackback (0)
Orcestra
051105

ほぼ初めて(前にも行ったことがあるが寝てしまった)フルオーケストラのクラッシックコンサートへ行ってきた。
当然、自分でチケットを購入して行く訳ではなく、貰い物のチケット。値段を見てビックリ。べラボーに高額ぅー。

バイオリン・チェロ・ビオラ・コントラバスのストリングス、ホルン、トロンボーン、フルート、ピッコロ、チューバなどなどのホーンセクション。ティンパニー、大太鼓などのリズムセクション。豪勢な布陣。

演目はコレだった。
ベートヴェンってこんなに下品だったか。みたいな感想もあったりして、久しぶりにライブを楽しんできた。途中まではだ。

途中からどうしても許せない出来事が起きた。
座席後ろの白髪のじじぃのウンチク語りが妙に鼻について、煩くなった。
「うん、まぁまぁだね。だけどあのソロピアノはちょっと?だね。」
演奏の合間に言っていたなら許したものの、演奏の最中にもウンチク語っておる。
「やっぱり皇帝だねぇ。いいよ。次の曲はこうなるよ。」

半端な通(ツウ)。
こういうニワカ評論家の語りが一番うっとおしい。隣にワタシと同じ初心者がいることをいいことにデカイ声で語っている。

最後には、ワタシも堪忍袋の緒が切れて、後ろを振り返りメンチ斬り。
その後は何とか演奏に集中できた。
あんまりクラッシック自体に明るくないので、こんなものかなってなのが正直な感想。

しかし、演奏終了後
カーテンコールと言うものだろうか。指揮者とメインの演奏者が何度も袖に引っ込んでは出てくる。クラッシックのお約束だそうで、見ているワタシには白々しく映った。
で、何度も拍手してアンコールもなし。

前に寝てしまった時は、ここだけは起きていてアンコールに応えていた覚えがある。
アンコールしないつもりなら、2回くらいでやめれ。
「わかってないな」って、ファンから言われるかもしれない。
「そうさ、こちとらど素人よ。そういうど素人を大事にしない文化がここにはある。」

「オーケストラは練習しないと曲が演奏出来ないんで早々アンコールには応えられない」とウンチクじじぃは語っていたが、そんなもん想定内として練習しなはれ。ポップスでもロックでも皆想定してるぞ。それがエンターテイメントでしょ。
上に立った立場で見下されている気がして、ここでも意気は萎えた。要はやらんなら、さっさと終わってくれといった感じ。

そんなに勿体ぶるなさ。客をもてあそんでいるとしか思えない。
アレってどんなクラッシックのコンサートでもやるのか。
そんな内輪のルールでやっていたら、将来、客は来るのか。

ここでも通ぶったウンチクじじぃが最高潮で語っていたのは言うまでもない。

家に帰ったら、映画スイングガールズがやってた。よっぽど、こっちの方が「音を楽しんでる」ってな感じになった。

同じ種類の楽器から、違った音楽や文化が醸造される。
クラッシック音楽の廻りにはびこるしきたりやうんちく語りの通。

そんなことぶっとばしてるから、ジャズは楽しい。
| つぶやき | 02:23 | comments (4) | trackback (0)
旅の友
051103

前々から話していた遠隔地の仕事が始まる。
打合せに休み開けに行くことになった。旅の始まりだ。
仕事柄どうしても打合せとなるとA3サイズの書類や図面が増える。
普通のバッグでは入らず、B3サイズのかばんとなる。やっぱり資料は折り目なくピンと張っていて欲しいのだ。

それに1泊となると着替えも必要となる。
色んなところに出かけ、色々なかばんを探したが、最後に辿りついたのが絵にあるようなナイロン製のパネルバック。でもこういうちとお洒落なやつではなく、もっと薄っぺらなやつ。

駆出し坊主の頃は、お洒落なかばんをと厚手のバックも持った。
だが、重い。かさ張る。着替えと一まとめにしたら、とんでもなく重くなる。
そのせいで折角の旅が、どうしようもなく苦行になってしまう。
一度、重さを考えて紙袋もためしたが、どうしてもボンビーな感じかつ雨には非常に弱く、折り畳むと結構かさばる。

だから、ペラペラ、ヨレヨレの黒いナイロンのバックに出会ったとき、「これだ。」と決まった。
重さ数グラム。要らない時は折り畳んで仕舞える。持ち手は長めで肩から下げられるし、結べば手提げともなる。
飛行機に搭乗する際は、手荷物検査で廻りのビジネスマンのカッチョイイかばんと比べてみすぼらしくもあるが、そんなもんはもう卒業したのだ。

現代の「風呂敷」みたいなもんかな。
使って10年ぐらい経っているが、ワタシにとってコレ以上のものはない。

こいつとまた旅です。
| 旅の途中 | 02:16 | comments (4) | trackback (0)

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